教会の歴史

キリスト教とは

キリスト教とは今から2000年前に、ユダヤ、現在のイスラエル国に生まれたナザレのイエスを「救い主」(キリスト)と信じる信仰から始まりました。旧約聖書のユダヤ・イスラエル宗教を正しく受け継ぐキリスト教信仰は、やがてヨーロッパ全土に広まり、多くの受難の歴史を経て、西欧文化の基をなすまでになりました。
16世紀、マルティン・ルターの宗教改革により、プロテスタント教会が誕生しましたが、その後、英国ピューリタンの中から出た、バプテスト派が、神戸聖愛教会のルーツにあたります。

 

神戸聖愛教会のあゆみ

神戸聖愛教会は、日本における一番大きなプロテスタント合同教会である「日本基督教団」に属する教会です。聖愛教会の歴史は古く、明治15(1882)年から、神戸の、初めは北野町で伝道が始められました。
現在の聖堂(サンクチュアリ)は1992年に竣工したもので、ロマネスク様式の伝統的教会建築となっています。
神戸聖愛教会は、国内外に愛と献身の奉仕活動を行い、また神戸市民の祈りの家として、正しい、聖書の福音を取り次ぐ教会です。



神戸聖愛教会は、「神戸浸(しずめ)教会」として1882年(明治15年)に誕生しました。

日本に宣教したプロテスタントには、日本基督・メシジスト・組合教会などいろいろな教派がありますが、私たちの教会の属しているバプテスト派もその中のひとつです。
 1872年(明治5年)米国、北部バプテスト派のネイサン・ブラウン氏が来日して宣教に当たったのが最初です。氏は1879年(明治12年)に新約聖書の和訳を完成したことでも有名です。
 1882年(明治15年)3月1日、北部バプテスト派の宣教師リース博士が、その頃、神戸の北野番外地の自宅に、「神戸浸(しずめ)教会」を開いたのが神戸におけるバプテスト派の宣教の発端です。その後、1895年(明治28年)2月にリース博士を助けるために来神したタムソン宣教師夫妻が葺合の小野浜に開いた基督教主義の「善隣幼稚園」内に「伝道所」を、同年8月に兵庫の戸場町に「講義所」を開きました。これらが、後の神戸・葺合・兵庫の三つのバプテスト教会に発展したのです。

リース宣教師
「神戸浸(しずめ)教会」の創始者、ヘンリー・ホルコム・リース博士は、1828年に米国のニュージャージー州で生まれ、カリフォルニア州で弁護士・判事をしていた時、福音の宣教に使命を感じ、按手礼を受けて牧師になりました。50歳の時に外国伝道宣教師を志願、1878年(明治11年)来日し、「東京第一浸礼教会」などで宣教に当たりました。その後関西伝道のため1882年(明治15年)神戸に移住し、バプテスト派として関西最初の伝道を始めました。北野の自宅を教会・学舎および牧師館として開放し、最初の伝道師・牧師を育て助けて宣教を続けました。その上、1892年(明治25年)には米国ミッションの授けを受けて、下山手通に当時としては素晴らしい立派な会堂を建設するなど、私たちの教会の基礎を固めた恩人です。こうして日本宣教18年、リース氏は、1899年(明治32年)5月10日、71歳の老齢をもって北野の家で天国に召されました。1981年(昭和56年)氏の墓標が再度山の外国人墓地にあることが判り、以後、私たちの教会では、毎年5月の第2主日に同墓地を訪れて墓前式を行い、その業績を偲び感謝の気持ちを捧げています。

タムソン宣教師夫妻
ロバート・オースチン・タムソン博士は1860年スコットランドのエジンバラに生まれました。ロンドンのハーレイカレッジで神学を学び、1884年(明治17年)に来日、4年後、米国北部バプテストの宣教師に任じられた後に老齢のリース博士を助けるために来神、葺合の小野浜に住みました。1895年(明治28年)わが国最初のバプテスト系幼稚園「善隣幼稚園」を開設、夫人が初代の園長となり、同時に園内に伝道所を開き、また兵庫に講義所を置いて伝道を開始しました。これが後に、葺合バプテスト教会および兵庫バプテスト教会に発展、リース博士亡き後はバプテスト三教会全体の指導者として主の御用にあたる他、関西伝道、特に大阪伝道にも力を注ぎました。また福音丸による瀬戸内海伝道実現に尽力、さらに琉球伝道再開を果たして現在の沖縄バプテスト連盟の礎を築くなど、その業績は多岐にわたっています。しかし、夫人の病気の悪化もあり、1931年(昭和6年)想いを残して帰国、退任されました。1932年(昭和7年)夫人が病のため天に召されたちょうど2週間後の11月28日に72歳で天に召されました。1991年には、夫妻が米国ロングビーチのサニーサイド霊廟に葬られていることが判り、教会は2年がかりで交渉の末、失われていたネームプレートを大理石の墓石(蓋)に取り付けることが出来ました。

神戸バプテスト教会
 1882年(明治15年)に「神戸浸(しずめ)教会」として発足した教会は、それから10年後に神戸市下山手通に会堂を与えられると同時に「神戸浸礼教会」と名称を改めましたが、一般には「神戸バプテスト」と呼ばれていました。その後、1924年(大正3年)正式に「神戸バプテスト教会」と改称し、神戸のプロテスタント教会の中心的存在として伝道の成果を挙げていきました。
後述の葺合・兵庫両教会と同じくヴォーリス氏によって設計された教会堂は、教会創立10年後の1892年(明治25年)に通称トアロードと呼ばれた大通りに面した所に与えられました。この会堂は、1945年(昭和20年)に戦災で焼け落ちるまでの53年間、「神戸バプテスト教会」の信徒の信仰を見守ってくれました。

葺合バプテスト教会
 1895年(明治28年)タムソン宣教師夫妻は、小野浜の地で「善隣幼稚園」を解説すると同時にその場所で、キリスト教の伝道を始めました。「神戸浸礼教会」の伝道所として維持された時期もありましたが、1919年(大正8年)に独立して「葺合バプテスト教会」となりました。この教会は、神戸東部の、賀川豊彦氏が新生活運動の拠点とした生活困窮地区の伝道に当たりました。この会堂も、1945年(昭和20年)6月5日早暁の神戸大空襲によって消失しました。

兵庫バプテスト教会
 タムソン宣教師夫妻が、善隣幼稚園で伝道を始めると同時に、西部の兵庫に講義所を開いたのがこの教会の起源です。その後1908年(明治41年)に「兵庫浸礼教会」、1911年には「兵庫バプテスト教会」とその名称を変えていきました。この通称「兵庫教会」は、近くに「新開地」という歓楽街を控え、盛り場での街頭伝道中に石つぶての洗礼を受けるなど、他の教会には見られない幾多の迫害を経験しましたが、きわめて家庭的な教会として栄えました。
 その会堂は、講義所時代には兵庫の戸場町にありましたが、1911年(明治44年)塚本通に立派な新会堂を与えられました。この会堂はヴォーリス氏の設計による木造モルタル張り、洋風の落ち着いたたたずまいは周囲の民家と溶け合った存在でした。礼拝堂の照明は当時でも珍しいガス燈で、その淡い光は敬虔な空間をつくっていました。これも1945年(昭和20年)3月17日に、他の二つの教会に先だって空襲により消失しました。

仮会堂の建設
三つの姉妹教会が相次いで消失してから2年、1947年(昭和22年)「下山手教会」に仮会堂が与えられることになりました。それは、占領軍の好意により、2棟のこんせんと・ハット(元米軍戦時用組み立て兵舎)俗称「かまぼこ兵舎」を会堂を消失した神戸の教会に抽選によって与えるというのです。その籤が当たったときの、内藤牧師をはじめ会員一同の喜びは想像に余りあるものでした。これを、葺合教会の焼け跡の一部に仮説、同年11月15日に献堂式を挙げました。

(つづく)


教会の約束

バプテスト派の教会は、、信徒一人一人が神に対して、また教会員相互に契約を結ぶことを大切な伝統としてきました。 そのための「教会の契約」(Church Covenant)は各個教会ごとに作られますが、神戸聖愛教は以下のような「教会の契約」を採択し、聖餐の前に出席者全員で唱和しています。



わたしたちは神の恵みにより、イエス・キリストを主として受け入れ、すべてを主に委ね、信仰告白により、バプテスマにおいて主と共に葬られ、主の教会に結ばれました。このことを確信し、今 聖霊の助けにより、厳粛に、また喜びをもって 互いにこの契約を結びます。
わたしたちは、兄弟愛をもって共に歩み、クリスチャンとしての配慮をなし、互いの喜びを分かち合い、やさしい思いやりをもって、互いの悲しみや重荷を担います。
わたしたちは、主の日の礼拝と聖餐式に出席し、この教会の霊性、調和、繁栄を祈り求め、その礼典、規則、教えを守り、これら教会の求めることを何よりも大切にします。
わたしたちは、この教会と牧師の職務を支え、隣り人を助け、福音を全世界に広めるために、恵みに応えて、喜んで献金します。
わたしたちは、日々聖書に親しみ、一人の祈りや家庭の祈りを絶やさず、信仰の継承を目指して、神より委ねられた子どもたちを、教え育てます。
また、清い心と、新しい生命と、すべての人への愛とによって、わたしたちの信仰を証し、奨め、人々を救い主へと導き、主が再び来られる時まで、この約束を固く守ります。
(日本キリスト教団 神戸聖愛教会 1997.3.16採択、更新)


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